LA生まれ、太平洋戦争中に強制収容も…ジャニー喜多川の若い頃が壮絶だった

LA生まれ、太平洋戦争中に強制収容も…ジャニー喜多川の若い頃が壮絶だった

今なお問題は膨れ上がるばかりの、旧ジャニーズ事務所・性加害問題。2023年5月に、元所属タレントが実名告発してからというもの、当事者の会ができたり被害者が次々に訴え始めるなど、実態が明らかになってきました。とうとう、元当事者の会メンバーが自死するという最悪の結果も生んでしまいましたね。

その加害者でもある、故・ジャニー喜多川さんは、1960年代に指導していた野球チームのメンバーを集めて「ジャニーズ」を結成し、事務所を設立。それから徐々にビジネスを拡大させ、日本を代表するアイドル事務所として名を馳せることになります。

そんなジャニー喜多川 若い頃のエピソードや生い立ちを振り返ってみたいと思います。

目次

ジャニー喜多川 若い頃を振り返る

ジャニー喜多川さんが生まれたのは1931年、アメリカ・ロサンゼルス。ジョン・ヒロム・キタガワという英語名も持っていました。「ジャニー」という愛称は本名と関係なく、ビジネスで知り合ったアメリカ人につけられたニックネームなのだそうですよ。

破天荒な父親と、早くに亡くなった母親

ジャニー喜多川さんには、仏教の米国別院の僧侶をしていた喜多川諦道さんという父親、そして喜多川栄子さんという母親がいました。アメリカに布教するために家族で移住していましたが、ジャニー喜多川さんが1歳ときに日本に帰国します。まもなくして母親が亡くなり、姉の故・メリー喜多川さんが母親代わりとなって面倒を見ていたのだそう。

父親は僧侶でしたが破天荒な性格だったそうで、自らを「ヤクザ」「遊び人」と自称していたという噂もあるんですよ。

アメリカ在住時は強制収容?和歌山大空襲も経験

ジャニー喜多川 若い頃に太平洋戦争による強制収容も経験しているという噂があります。しかし、ジャニー喜多川さんがアメリカを出て日本で暮らし始めたのは1933年ごろとみられており、太平洋戦争が勃発する前だったことも分かっています。ご本人も、太平洋戦争時アメリカにいたことは明言しておらず、噂に過ぎないようですね。

太平洋戦争勃発時は日本におり、和歌山県に疎開していたという説が有力なようです。和歌山大空襲で被災もしているそうですよ。

高校でアメリカに戻るも…

母親が亡くなり、日本の小学校と中学校を卒業したジャニー喜多川 若い頃。第二次世界大戦が終結すると、ジャニー喜多川さんは再びアメリカに渡り現地の高校に入ります。アメリカ生まれですが育ちはほとんど日本だったため、英語は話せなかったそう。現地では、戦後ということで差別やイジメも経験したのだとか。しかしこのとき、アメリカで美空ひばりさんと出会ったことで、芸能関係の仕事を目指すことになるのです。

そして芸能事務所を設立、才能を開花

1962年、ジャニー喜多川さんは当時指導していた野球チームの中からメンバーを選出し「ジャニーズ」を結成します。同年、事務所を設立しますが、現在問題となっている性加害は当時から発生していました。ジャニー喜多川さんによる、所属タレントに対するわいせつ行為が報じられていましたが、当時は同性愛がタブー視されている時代。大きく取り上げられることはなく、問題視されることはなかったそうですよ。

まとめ

ジャニー喜多川 若い頃は壮絶な人生を送ってきたことが分かりました。時代背景も相まって、戦争や差別を異国の地で経験していたのですね。

現在、後継者たちが尻拭いをしている性加害問題は、ジャニー喜多川さんが10代のころから起こっていたとされています。野球チームからアイドル事務所を設立したというサクセスストーリーも、性加害という背景を見ると痛ましく思えてならないですね。

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